『儚い光』、「無主の土地 ( テラ・ヌリウス )」の章から抜粋。
アテネには真夜中についた。ホテル・アマリアスの部屋に鞄をおくと、わたしはまたすぐに町にでた。一歩あるくごとにドアをひとつくぐるような気がした。目に映るものがどれも記憶のなかにあったものとして思いだされるようだった。街灯の下で街路樹の葉がささやいていた。リカヴィトスの丘の急な坂道をやすみやすみのぼった。
わたしはコスタスとダフネが住んでいた家をじっと見つめた。家は最近化粧直しをしたらしい。窓辺のプランターに花が咲いていた。玄関のドアをあけて、いまはもう消えてしまった、あの優しいふたりの世界にはいりたいという衝動にかられた。
コスタスは、亡くなるまえにくれた手紙にこう書いていた。「そう、わたしたちには民主的な憲法ができた。言論の自由もある。テオドラキスも帰国した。いまのわたしたちは円形劇場で古典悲劇を見たり、レンベティカを歌ったりできる。しかし一日たりとも芸術工科大学( ポリテクニオン ) での虐殺を忘れることはないでしょう。あるいはリッツォスが長く獄につながれていたことを ー 彼はテッサロニキ大学で名誉学位をうけ、パナティナイコ・スタジアムで『ロミオン』を朗読したけれども…」
コスタスとダフネの家のまえにたっていると、あのふたりがもうこの世にいないこと、アトスが亡くなってもう八年近くたつことが嘘のように思われた。
ホテルのベッドで横になっても、わたしはずっと起きていて、しまいには疲労のあまり泣けてきた。アマリアス大通りには車や人の往来がたえなかった。ひと晩中町の音をききながら、わたしは過去の世界を旅した。
翌朝、憲法広場( シンタグマ ) にでたわたしは、不意打ちのようにドイツ語を耳にし、おおぜいの観光客を目にして、不安になった。それから朝一番の便でザキントス島に飛んだ。空の旅がごく短いことに、かえってわたしはとまどった。だが空港をとりまく平原はわたしの知っている風景だった。野生のカラーなど丈のたかい草が熱い風に音もなくゆれていた。
わたしは夢見ごこちで丘をのぼった。
地震はわたしたちの小さな家を石塚( ケルン )にかえていた。わたしはアトスの遺灰を石の下に埋めた。アスフォデルが、瓦礫のあいだにたくさん生えていた。アトスがこの世を去った以上、この家もなくなってしまうのがふさわしいように思えた。徐々に復興がすすんでいるザキントスの町にもどって、あるカフェニオできいてみると、マルティノスじいさんは前の年に九十三歳で亡くなった、葬儀には町じゅうの人が参列したと言うことだった。地震いらい、イオアニスの一家は本土で暮らしていた。
数時間後、わたしはフェリーのドルフィン号で海峡をわたり、ザキントス島をあとにした。
2009年11月23日
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